三国志演義後半の武将物語

三国志演義の後半(孔明死後)の物語、活躍した武将たちの解説、三国志ゲーム、三国志にまつわることを気ままに書きます。

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三国志呉の武将

陸遜 呉のイケメン大軍師!最後はもうろく皇帝孫権様と対立…。

どうも!
諸葛菜です。

今まで出落ち武将=雑魚武将・無名武将ということで扱ってきた記事が多いのですが、孔明死後の三国志演義後半(第106回~)に出てきた大物武将であえて出落ちとなった(羅貫中にされた)武将って、パラパラいるんですよ(汗。

蜀の蒋エン・董允もそうですが、さらに知名度スーパーヘビー級の陸遜です。陸遜といったら夷陵の戦い、石亭の戦いで有名だと思います。

百度:陸遜より

 

イケメン参謀。口癖はもちろん「フッ・・・」かな?

陸遜のウィキリンク

陸遜(183年 - 245年)

陸遜って余りにも有名で優秀な武将なので、モブ武将ばかりに目がいっている諸葛菜の目になかなかとまりませんでした。悠呉さんやかがみみことさんのコメントの中から陸遜の名まえが出てきましたが、なぜか今まで書いていませんでした。なぜだろう・・・。

むしろ、私のような人間にとっては陸抗の方が印象が強くて、彼の記事も書こうと持っていますが、時代的にかなり後半なので、まだ書いていないです。

 

演義後半に登場…かと思いきや死んでいた

さて、

演義前半での活躍はウィキに譲ることとして、陸遜の演義後半でのシーンを見てみましょう!

演義での登場回は第108回。

呉ではすったもんだがあって、孫亮が太子に決定しました。

(原文ママ)
この時、陸遜・諸葛キンすでになく、政事はすべて諸葛恪の手に帰していた。

やられた・・・羅貫中必殺のタイムスリップ殺人・・・。時間の経過と言うことで、読者に不平を唱えさせない完璧な処理の仕方…。当時(明の時代)の人はそれで納得したのかもしれないけど、書籍は言うに及ばず、三国志ゲーム、三国無双、暖衣飽食した我々現代っ子の三国志好きにとって、こんなタイムスリップでは納得できません。

陸遜はゲームや小説でもすごいキャラとなって引き立っていますし、ファンにとって演義第108回のごとき扱いは、受け入れがたき所業!

こうなったら私の手元にある坂口先生のその後の三国志とウィキの出番です。

 

呉国で世継ぎ争い

呉では太子の座を争い、孫和、孫覇派に分かれて家臣団が対立。

  • 陸遜・諸葛恪・滕胤ら数名は太子の孫和を支持。
  • 歩隲や呂岱ら数名は魯王の孫覇を支持。

そのような中、244年に陸遜は丞相になりました。この時期に丞相って・・・心苦しさはどんだけでしょうか・・・。

陸遜は駐屯先の武昌から再三孫権へ上奏しています。

「御嫡子である太子の地位を、磐石の如く不動のものにしていただきたい。魯王は藩臣ゆえ、恩寵・待遇に差をつけなければなりません。お二方の地位がしかるべきところに収まって、初めて上下の臣下は安堵します」

…至極まっとうな意見じゃあないか・・・。

いろいろな事情があるにせよ、太子を後継者にするのが常道ですから、陸遜の言うことはもっとも。

陸遜の意見は全く聞かれないばかりか、かえって孫権の「陸遜包囲網」はちぢまるばかり。陸遜の外甥である顧譚、顧承兄弟、ヨウ信は交州に流され、張休は自殺させられました。

陸遜は功臣であり、呉の重鎮。陸氏は呉の四姓の一つですし、これを殺してしまったら収集がつかなくなってしまう。このような背景が逆に孫権にとっては目の上のこぶ。

詰問の使者を送って責め立てるという、陰湿なやり口。誇り高き陸遜はこれに耐えられずに自殺してしまいます。

この辺の陸遜憂死については、演義、横山三国志、吉川三国志にも書かれていません。

ウィキを見てみると、234年(236年?)以降の陸遜の活躍が書かれています。以下、抜粋。

234年夏5月(「呉主伝」。「陸遜伝」では236年)、孫権は自らは合肥に出兵するとともに、陸遜と諸葛瑾に襄陽を攻撃させた。陸遜は腹心の韓扁という人物を送り、孫権に戦況を報告させたが、韓扁は沔中で敵と遭遇し捕虜となってしまった。

諸葛瑾は機密が敵に洩れてしまったことに動揺し、陸遜に撤退すべきではないかと意見を求めたが、陸遜はすぐには返事をせず、ただ泰然自若としていた。諸葛瑾は陸遜には考えがあるのだと察した。諸葛瑾が陸遜の元を訪れると、陸遜は状況を冷静に分析した上で、撤退の作戦を教示した。陸遜と諸葛瑾はその作戦に従い、無事に撤退することができた。

陸遜は撤退の途中、白囲まで来たところで、表向きは狩猟をすると偽り、将軍の張梁と周峻に命じて江夏の新市、安陸、石陽を急襲させた。特に石陽の人々は油断していたため、動揺した敵の将は多くの民を殺害した上でやっとのことで城門を閉ざすことが出来た有り様であり、数千人が斬られる大損害を受けた。陸遜は軍に乱暴を禁止し、捕虜も優しくねぎらい、自由な帰宅も許した。そのため、魏の官民からは呉に帰属する者も多く出た。

魏の江夏太守の逮式は軍勢を率いて、しばしば呉との国境を侵していたが、古くからの有力者である文休(文聘の子)とは不仲であった。陸遜はそのことを聞き、逮式の呉への投降要望に対して迎える準備ができたという偽手紙を送って逮式を動揺させた。その様を見て江夏の将兵は逮式への信頼を失い、しばらくして逮式は免職となった。
237年2月、前年から反乱を起こしていた賊の彭旦らを攻撃し、その年のうちにこれを破った(「呉主伝」)。

同年、中郎将の周祗という人物は鄱陽郡において徴兵したいと申し入れてきたが、陸遜は鄱陽の住民の民心は不安定であることから賛成しなかった。しかし、周祗が強く主張したため、やむなくそれを許可した。結果、周祗は住民の呉遽の反乱により殺害され、豫章や廬陵の不服従民もこれに呼応し、周囲の諸県の治安も悪化した。陸遜は自ら反乱の平定を志願し、陳表(陳武の子)の力も借りてこの反乱を鎮圧し、呉遽を降伏させた。このときの投降者の中から8千人徴兵した。陸遜は上奏し、陳表の功績を報告した(「陳武伝」)。
この間、謝淵や謝宏という人物が経済や財政政策について意見を述べ、孫権から下問を受けると、陸遜は「国家の根本は民衆であるため、数年、万民たちの安寧を計り、財政が豊かになった上で再検討すべき」と論じた。

陸遜の疑念、晴れる

陸遜に対する疑念は、子の陸抗が陸遜の故郷埋葬のために呉郡に戻り、宮廷に参内したときにすべて晴らし、孫権は深く後悔した。251年に陸抗が病気治療のために都に上り、病が癒えて任地に戻るときには、孫権は陸抗の手をとって涙を流して謝罪し、陸遜に対する謝罪の言葉を述べた上で、自分の送った手紙はすべて焼き捨ててくれるよう嘆願した。
諸葛恪の記事でも書きましたが、陸遜は諸葛恪に対し「その人を人と思わない性格をどうにかしろ」としかりつけていました。

言われた本人があれなんで、どうにも成りませんでしたが、陸遜は後進の育成にも力を注いでおりました。

陸抗 三国志の名将陸遜の息子!三国志演義では羊コとのエピソードしかないけど…末期呉の柱石なんだ!

外貌

百度:陸遜より

 

ウィキにあるように、演義では「身長八尺、面如美玉」と体躯堂々たる美男として描写されている。横山光輝の『三国志』では、前記されているような美男子には描かれていない。

うろ覚えですが、横山三国志では「ちゃま将軍の夏侯ボウ閣下」と殆どかわらない顔立ちだった気がします。

もし、横山御大がご存命でありましたら、インターネットが普及した今日の陸遜萌えも含め、陸遜ファンの方は、何ゆえ陸遜があのような格好だったのか質問したいことでありましょう・・・。

残念だったなあ・・・陸遜。安らかに。

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